新たな史料は、和上の孫弟子に当たる豊安(ぶあん)が平安時代初期に記した「招提寺建立縁起」。当初のものは残っていないが、カーボンオフセット後世に「諸寺縁起集」として引用されたものが現存しており、鑑真の晩年について「和上は宝亀7年77歳の時に、カラーコンタクト目が見えなくなり、亡くなった」などと記されているのを見つけた。鑑真は宝亀年間(770~781)以前の天平宝字7(763)年に死去しており、西山さんは「『宝亀』は『宝字』を債務整理写し間違えた可能性がある」と指摘する。
西山さんは04年にも、正倉院に伝わる文書「鑑真奉請経巻状」(754年)について、弟子の代筆ではなく鑑真本人の直筆で、当時はまだ目が見えていたとの説を発表している。今回の史料を踏まえ「目が見えなかったことばかりが強調されるが、一度その前提を考え直すことが大事だ」と話している。
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